ここね

3.カウンターとしての「天然酵母」

 1970年代から80年代頭にかけての新聞記事やレシピ本での、天然酵母の説明は、だいたいこんな感じです。「化学合成物質を使って培養する人工酵母(イースト)と違う、天然の材料で培養した安全でおいしい天然酵母」<11>。培養する時のごはんによって、酵母が人工物になったり、天然物になったりすることはないので、この説明はおかしいのですが、そこは一旦置いておいて、この章では「天然酵母」という言葉の社会的意味について考えてみたいと思います。

 1975年に『複合汚染』がベストセラーになり、農薬や食品添加物に対する関心が高まってきたこの頃の空気に、「天然酵母」はぴったりハマりました。2章でみてきたように、天然酵母は、「パン業界」の外側から発生した言葉です。1970年代後半から、東京近辺では生協仲間や消費者グループの間などで、ホシノ天然酵母パン種を使った講習会があちこちで開かれました<12>。また、大阪の楽健寺も、積極的に天然酵母パンの「布教」活動を行いました<13>。これは、市販のパンには、危険な食品添加物や、化学物質が使われているのではないか、という不安が動機のひとつでした。実際、この時代には、漂白小麦粉を使った真っ白なパン生地で、臭素酸カリウムなどの酸化剤を添加してボリュームを出し、還元剤や酵素剤でいつまでもやわらかく、防カビ剤が入っているためにいつまでもカビないパンが、大手量販店などで売られていました<14>

  1980年代あたりから現れた、町の「天然酵母」のパン屋さんで、同じく重要なキーワードになったのは「国産小麦」や「無添加」という言葉でした<15>。今では、製パン向きの素敵な国産小麦が多品種栽培されていますが、当時は、国産小麦でパンを焼くというのは至難の業でした<16>。それでもなお、国産にこだわったのは、戦後の輸入小麦粉によって日本の小麦生産が激しく落ち込んだことに対する抵抗だったし、ポストハーベストへの不安があったからでした。こういう流れの中で、「儲け主義の製パン会社が、危険な農薬を使っているかもしれない輸入小麦で、人体にどんな影響をおよぼすかよく分からない添加物を使って大量生産したイーストパン」に不安や反発を覚える人たちがいて、その市販のパンに対するカウンターとして出てきたのが、「添加物を使っていない、国内産の小麦を使った手作りの天然酵母パン」だったのだ思います。ここで重要視されたのは、酵母が天然か否かという言葉の正しさ云々よりも、パンを作る姿勢や志であったのだろう、と。

  もちろん実際にパンを作る主体や作業は、そんなふうに簡単に二分化できるものではありません。情報不足や人々の不安を背景に、イーストに対する過剰で根拠のない批判もありました<17>。ただ、本当は複雑な事柄を「イーストパン=悪、天然酵母パン=善」という分かりやすい構図に落とし込むことで、より多くの人が、売られているパンの材料や作り方に厳しい視点を持つようになった、という効果はあったと思います。

 消費者のニーズに合わせ、今では市販のパンも、添加物はできるだけ使わないという方向になりました。中には「国産小麦」や「発酵種」使用をアピールするパンまであったりして。でも、過去にどんなパンが売られていて、それに対するどんな抵抗があったのか、といった文脈を無かったことにして、「天然酵母という間違った言葉のせいで、イーストが安全じゃないって思われちゃったから、イメージがいい(パン)酵母って呼ぶことにしよう」っていうのは、笑止千万ではないですか。悪いのは「イースト」や「天然酵母」ではなく、未だに、イーストフード・乳化剤不使用の強調表示問題<18>のようなことをやっている製パン会社の姿勢です。パン業界がやるべきだったのは、イーストからパン酵母への改名ではなくて、イーストとはどんなもので、どのように作っているのか、パンの材料、とくに食品添加物を使う理由を、丁寧に説明し続けることではないでしょうか。

4.酵母のごはんで分けられるか

 「有機天然酵母」と表記されている商品を見たことがありますか。種起こしの必要がなく(発酵種ではない)、有機の穀物のみで酵母を培養して、粉状に乾燥させたものです。製菓製パン材料屋さんなどでは、「天然酵母とイースト」は、「発酵種とイースト」とは違う論拠で分けられています。「一般的にイーストは、自然から取り出した酵母を、人工的に培養しますが、多くの天然酵母は、自然の栄養分で培養されています」<19>。酵母のごはんでイーストと天然酵母を区別する。40年前と同じです。

 酵母は生き物なので、培養するには食べ物が必要です。例えば、白神こだま酵母、サフのイースト、どちらも主な栄養源は糖蜜です。おそらく、加工助剤として、窒素とリンを使っているものを「イースト」としているようです。具体的には、アンモニア塩やリン酸などです<20>。窒素とリンって、植物を育てる時の肥料ですよね。どちらも生体には必須の物質なので、そんなに変なものじゃないと思います。ただ、作物を育てる時には、化学肥料よりも有機肥料の方が持続可能な社会をつくる、という考え方もあるので、分けることに全く意味がないとも思いません。 

化学肥料有無イースト発酵種の表  どちらも人工的な培養でありながら、ごはんの中身で天然か否か決める、というのは筋が違うと思います。でも、酵母のごはんによる分類法が40年も続いているのだから、この分け方にも需要があるはずです。なので、そこに注目して、どちらかを選ぶことができる、という選択肢は、あった方がいいと考えます。それは、「イーストと天然酵母」ではなく「化学肥料有と化学肥料無」というべき分類です。

5.多様性、そして呼び方

 ところで、乳酸菌だけに焦点をあてるならば、ホシノ天然酵母パン種も、発酵種ではありません。発酵種と呼ぶには、乳酸菌数が少な過ぎるからです。ただ、ホシノ天然酵母パン種について日本パン技術研究所に問い合わせたところ、「天然酵母表示問題に関する見解」の筆者の井上好文先生が、丁寧なお返事をくださいました。以下、許可をいただいたので、一部を引用させていただきます。
  「ホシノ天然酵母パン種の特徴には乳酸菌ではなく麹カビが大きく寄与しています。パン種の製造に使用される麹カビが持つ諸酵素が生地の性質やパンの香り、風味、そして食感に大きく影響していると推察されます。したがって、ホシノ天然酵母パン種は野生の酵母と麹カビという『微生物の複合相』の働きを利用して、パン酵母とは異なる美味しさをパンに演出する発酵種、あるいは天然酵母種と言えるのではないでしょうか」
 ここねが、ホシノ天然酵母パン種を選んだのは、おいしいパンが焼けるからです。麹は、乳酸菌よりも多くの分解酵素を持っているので、パンに複雑なおいしさが出るのだと思います。それに、自家培養発酵種よりも、雑菌が入る可能性は低いと考えます。

 発酵種がいろいろあるように、「イースト」と一言で言っても、それぞれのメーカーが、多様なイーストを商品化しており、種類は様々です。当然、使うイーストによって、パンの味も変わります。それから、ほとんどのイーストには、酵母の他に乳酸菌も入っています<22>。その方がおいしいパンが焼けるので、研究して、そのように作っているのですって。だから、「イーストをパン酵母に改名」してしまったら、「パン酵母には乳酸菌も入ってる」って、説明になってしまうので、分かりにくいと思います。
パンを膨らませるのに使うものいろいろイメージ図

 「天然酵母」という言葉は、そのキャッチーな響きで時代の波に乗って、一世を風靡しました。でも、言葉としては不正確で、混乱を招いているので、そろそろ一線を退いてはどうかなと思います。「発酵種」が、誰にでも伝わる言葉になるといいな。

 とにもかくにも、「パンを膨らませるために使っている、酵母を含んだもの」というのは、呼び方がどうであれ、それぞれに、おいしさだったり、培養のされ方だったり、発見された時の物語だったり、を持っていて、知れば知る程、奥が深いものです。さらに、そこに、どんな粉を使って、どんな風にこねて、どう焼くのか。パンの作り方のバリエーションには、果てがありません。おもしろいよね。
 最後まで読んでくださって、ありがとうございました。もし、まだここねのパンを食べたことがない、なんて方がいらっしゃいましたら、ぜひ一度、ここねにいらしてくださいね。

(2019年9月 ここね 麦畑ちひろ)