ここね

天然酵母?イースト?発酵種?パン酵母?パンを膨らますものの呼び方についてのここね的考察

1.「天然酵母」と「イースト」と

 「北海道産小麦、天然酵母種を使った手作りパン屋」。これは、ここねがよく使っている、店の謳い文句です。「天然酵母」って言葉が入っているだけで、長々と説明しなくても私たちなりに考えて選んだ材料を使ってパンを作っていることが伝わりそうだし、味わい深いパンってことが分かってもらえるような気がしていたから。これまでは。でも、この先は?
 天然酵母の説明として、よく目にするのは、「イーストは、パンを膨らませるのに適した酵母を選んで、人工的に純粋培養したもの。対して、天然酵母は、イーストよりも時間はかかるけれども、乳酸菌など他の菌も一緒に培養して使うので、味わい深いパンになる」みたいなものだと思います<1>。一方で、こんな説明もあります。「イーストは英語で酵母のこと。イーストも、天然酵母も、パンを膨らませるのに使う酵母は、そのほとんどが学名サッカロマイセス・セレビシエという、もともと自然界にいた酵母であり、人工、天然の区別は無く、同じものである」<2>。はてさて?

イーストと天然酵母イメージ図   結局、天然酵母とイーストは同じものなのか、違うものなのか。実は、「天然酵母」という言葉には、万人が合意している定義がありません。人によって言葉の示す内容が違うので、説明も違ってきてしまう訳です。このゴチャゴチャに終止符を打つべく、日本パン技術研究所では、これまで天然酵母と呼ばれることが多かった、「酵母と一緒に乳酸菌なども培養されている種」を、「発酵種」とか「天然酵母種」とかって呼ぶことにしてはどうでしょう、と提案しています<3>。そうすると、一つ目の説明と、二つ目の説明に矛盾がなくなります。「発酵種の中には、酵母の他に乳酸菌などが培養されているので、味わい深いパンになる。その酵母は、イーストと同じサッカロマイセス・セレビシエである」。ふむ、なるほど。

 ここねでは、ホシノ天然酵母パン種を使っています<4>。開店当初は、このパン種のことを「天然酵母」と呼んでいましたが、途中から「天然酵母種」と呼ぶことにしました。酵母は、もともと自然界にいるものだけれど、連れてきて、人間が培養してから使うので、「天然酵母」は言葉的に正確ではありません。それに、ここねのパンのおいしさの素は、「酵母」のみにあるのではなく、ほかの微生物も生きている「種」にあると考えるからです。本当は、天然って言葉も入っていない方がいいと思うのだけれど、「発酵種」という言葉は、2019年の今日、あまり一般的ではなく、説明が必要なので、謳い文句としては使いにくいと感じています。

 ところで、パン業界なるものでは、2007年に「イースト」のことを、これからは「パン酵母」と呼ぼう、と(勝手に)決めて、食品表示の表記を変えたそうです。天然酵母という言葉のせいで、イーストが、非天然で安全性が低いものだと一部の消費者が誤解してしまうことが、その理由とのこと<5>。へえー、でも、材料としてのイーストは、スーパーカメリヤも、サフも、今でもイーストって名前で売っているよね。分かりにくいなあ。。という訳で、どうして、日本では製パン用の酵母を「イースト」と呼んでいるのか、どうして、「天然酵母」という言葉が使われるようになったのか、調べてみました。

2.パンを膨らますものの呼び方の変遷

  順番としては、まず、イーストという言葉が入ってきて、その微生物を示す日本語として考えられたのが、「酵母」でした<6>。19世紀の終わり頃には、「酵母」は言葉として定着していたのだけど、パン屋さんたちが日々使っていたものは「種」と呼ばれていました。酵母と他の微生物たちが生きている、自家培養発酵種です<7>
 そこに、欧米から「イースト」を使った製パンがもたらされます。ただ、はじめから呼び名が「イースト」に統一されていたわけではありませんでした。1915年、田辺玄平さんが日本で初めて開発した乾燥酵母は「玄平種」と呼ばれました。マルキ号製パンが開発した「マルキイースト」の広告には、「圧縮パン種」「コンプレスト・イースト」の文字が踊ります<8>。この時代から、1940年代くらいまでに出版された本や雑誌で、パンの作り方をみてみると、「乾燥酵母」「圧搾酵母」「イースト」「乾燥イースト」「生イースト」「パン種」「酵母」などの言葉が使われていたことが分かります<9>。そして、その後は「生イースト」「ドライイースト」に、ほぼ集約されていきます。

 これは、「イースト」が、言葉として使い勝手が良かったから、だと思います。乾燥酵母や圧搾酵母と言った場合の「酵母」は、「製パン用に作られた、主に酵母を培養して固めたもの」という意味で使われているけれど、「酵母」には、もともと微生物そのものを指す言葉としての役割があります。酵母を培養して作った製品も酵母、と呼んだのでは分かりにくい。では、「パン種」はどうかというと、「製パン用に作られた、主に酵母を培養して固めたもの」から、まず「種」(元種とかパン種とか言ったりする)を起こす、という製造工程がある/あったので、種から種を起こす、という言い方になってしまい、これもまたややこしい。そこで、採用されたのが「イースト」だった、と考えるのが自然です。「イースト」は、日本において、「製パン用に作られた、主に酵母を培養して固めたもの」という意味で使うという役割を付与されたのだ、と。

 天然酵母という言葉がメディアに登場するようになったのは、1970年代です。1974年、「ホシノ天然酵母パン種」を作った星野昌さんを取り上げた小さな記事が、朝日新聞に掲載されました。「パンの原点求めて◇◇天然酵母の研究20年」。星野さんは、酒・醤油醸造業の方でしたが、横浜で、フランス人老船員の手作りパンの味に魅せられたことが、研究のきっかけでした。1974年に開店した、楽健寺の天然酵母パンが朝日新聞の記事になったのは、1981年です。このパン工房は、お寺さんでした。
 2000年代には、パンブームの中のいちジャンルとして、天然酵母という言葉が定着していきました。天然酵母という言葉が一般的になってきたことで、それまで「自然酵母」や、「自然発酵種」という言葉を使っていた人たちも、天然酵母という言葉を使うようになったりもしました<10>

 「天然酵母」新聞記事ヒット件数グラフ